前向きな不登校
この記事を読んで思ったことは、おそらくみなさんが思うような「不登校」とはちょっと違う視点の不登校なんだろうと思う。
ヤフーのコメントを見ていると、批判的なコメントが多かったように思いました。
「同年代の子供同士の交流は大事じゃないのかな?」
「これ いじめとかで不登校になったけれど前向きに頑張ってるとかの美談かと思ったら
ただの親子揃ってのワガママじゃねえか」
「この子の将来像が想像できない。
想像するのは、協調性がなく、我慢強さがなく、わがままで、好き嫌いがはっきりした感じかな。」
なぜ、「選んだ不登校」=「ワガママ」のような扱いをされなきゃいけないのだろうと違和感を覚えます。不登校の子どもは苦しんでいないと「学校に行かない」という選択はできないのだろうか?
私は学校に行くのが辛くて不登校になったのですが、ここに書かれているお子様は最初から「学校には行かない」あるいは「たまに行く」というきっかけで「不登校」になっているのですね。確かに少し違うかもしれませんが、「不登校」違えど、不登校であるメリットを最大限有効活用しているなぁと関心します。
「親のエゴ」「わがままの助長」ともコメントに書かれていましたが、元不登校だった私が思うのは、こういう選択肢があるということは素敵なことだなと素直に思います。
どちらかというと、「不登校になる時間もきっと大切な時間だったでしょう」と、不登校の経験がない人から上から目線で言われることの方が元不登校の私としては気に障ります。なぜならそこには「学校に行くこと」が正しく「学校に行かないこと」はただのワガママである。この区別が絶対的に存在しているからです。
私は不登校であった間、その後も「学校に行かない=ワガママ」という社会の偏見とずっと戦っていたように思います。(少し被害妄想が強いかもしれませんね 笑)
その見えない何かと戦う為に、不登校であった理由を今まで一生懸命探してきましたが、そんな理由は浮かんでもとってつけたもので…結局、明確な理由など存在しなかったと思っています。
今も「だから私は不登校でよかった」とは、言い切れない。けれど「不登校であったからできたことは存在したよね」というような曖昧な中で生きています。できれば、曖昧ではなく「これでよかった!」と生きていけたらいいのにと思っています。
不登校経験を通して今思えることはただ1つ、「どうせ行かないなら開き直ってその期間は有効活用すべきだ」ということ。もっと自由に世間の目を気にせず、色々な経験してもよかったなと少し後悔しています。なぜなら不登校時代に試行錯誤して自分で得てきた経験は、何1つ無駄ではなかったと実社会に出ても思えているからです。
きっとこの記事のお子様が大人になった時に、それまでに得た経験レベルは計り知れないものであると思います。 もちろん学校生活のレールに則った経験はあまりないかもしれませんが、その経験がない時代もあったのですからそれがないからと言って人間がおかしくなるわけがありませんよね?逆に他の子どもが持っていないスキルを持っていることは大きな利点だと思います。
様々な選択肢がないことの方が、「不登校=苦しい」で終わってしまう。
「不登校」になったならば、じゃあその期間苦しむのではなくて、その時間をどう有効活用するか、そういう考えにシフトすべきではないでしょうか。
子ども時代に不登校だった期間を苦しい日々で過ごすのか、楽しい日々で過ごすのか、それ次第で人生は全く別のものになるはずです。
「苦しんで苦しんだ先に道が開けた」のような美談にしなければ「不登校」は認められない、可哀想な子、弱者のような扱いをされなければ認められないのならば、不登校になっても明るい不登校で生きて行くと決めた子供にとっては窮屈ですよね。
みんながちゃんと学校に行くことが正しいことなのでしょうか。
自分もそうだったから、そうあるべきということの方がエゴではないでしょうか。
世の中を変えた人物が必ずしも優等生だったわけではないし、同じ育て方をしたら同じようになるという保証はどこにもない。
世間の常識に当てはめ子育てをした結果、世界のリーダーになれる子に成長するのだろうか。 様々な選択肢を社会が持ってくれる日がくれば、不登校の未来も明るいのになぁと思った記事でした。