元不登校、母になる。

学校へ行かなかったけれど、大人にはなれる。でも子育てって大変。頑張れ(不登校の)後輩たち!

死にたい子を止められるのか。

「子供はたくさん失敗するけど、子供の傷はすぐ治る。」

先日のコードブルーを観ていた時、いい言葉だなぁと思った。(うろ覚えですが)

 

「生きているのが辛くなった。」

そこまで思い詰めると、多分死ぬか生きるかは振り子のように揺れてる状態だ。

振り子が「死ぬ」に傾いたら死を選んでしまうんだろう。

 

私は大人になってからも、みんな今まで一回くらい本気で「死にたい」と思ったことがあるんだろうなと思っていた。実は、そうでもないらしいということを最近知った。

それを知ったら、「なんだ自分は随分思い詰めた10代を歩んできてしまったんだな。」とヒザカックンを食らって拍子抜けした。そんな「死ぬ」までの考えまで、思い詰めて行き着かなくてもいいらしいぞ!と触れ回りたいくらいだ。

 

私の10代はどちらかといえば、絶対失敗をしたくないタイプで。

心がやけに繊細で。人の心の変化を敏感に感じ取るのが癖で。

自分を信じられない、他人も信じられないタイプの子供だった。

他人を信じられないのは、裏切られるのが怖いから。

自分を信じられないのは、自分が失敗ばかりするから。

失敗が嫌いな私は失敗する自分が嫌いになる。 

今考えるとかなりの偏屈です。

 

死にたいと思っている子を止められるのか。

自分の過去の心境からいうと、正直止められるかは疑問だ。

かつての私のような心理用語でいう「I'm not OK. You're not OK.」タイプはおそらく自殺に至る考えに陥りやすい。(そりゃそうだ。自分も他者も信じられないのだから。)

未来に希望も持てない。苦しみも悲しみもずっと続いていくもんだと思っていたし、死ねば楽になると思っていた。

私自身の振り子が「死ぬ」に傾かなかったのは、1日1日を永らえて来て得た経験の中で「そうではないかもしれない。」と思えたからだろう。

f:id:fromwhiterabbit:20170902195229j:plain

じゃあ、子供がそのような考えに至らないようにどう子育てをしたらいいのだろう。

まずは「自分を信じること」をどう伝えて行けばいいのか。

「自己肯定感」はどこから生まれるのか。

たくさん褒める? 「失敗しても大丈夫だよ」とフォローをする?

話をたくさん聞いてあげる?絵本を読んであげる?経験をたくさんさせる?

子育て本に書いてあることを一通りすることで得られる効果もあるだろうからやってみようと思うけれど、そんな全てを解決できる正攻法はないと思う。

(上記全てできてるとは言えないので定かじゃありませんが。)

 

振り子がどちらかに傾くかは、結局その子次第だ。

だけど引力はきっとある。親が子供を信じる心は引力になりえると信じたいと思う。

「あなたは私の宝物だ」「私はあなたを愛している」

そんな臭いセリフは、少し照れくさいけれど伝えるようにしている。 

私があの頃そう言ってもらえたら少し違かった気がするから。

 

誰かに大事にされた経験がなければ、自分を大切にする方法はわからない。

自分は大事にされる価値のある人間だと思わなければ、自分の命を大事にしない。

 

子供が負った傷は治りやすい。

「I'm OK. You're OK」 と今思えてるから私の傷は治ってる。

 

シェイクスピアの言葉にもある。

「どんな傷でも、治る時は徐々に治ったのではありませんか」

そう徐々に傷って治るんだ。心の傷は治る。

先生ってそんなに素晴らしいのか。

f:id:fromwhiterabbit:20170902153547j:plain

先生の中には素晴らしい先生もいるし、その逆もいる。

 

基本、先生のことは尊敬するべきだ。

私もそう思っている。

実際に尊敬に値する先生は沢山いる。

 

しかし、母親が最初から完璧な母親ではないように、

父親が最初から完璧な父親ではないように、

先生も最初から完璧ではない。

 

学校の先生のお仕事は、大変だと思う。

朝早くから夜遅くまで、たくさんの業務がある。

一人の子供に構ってあげられる時間は限られているだろう。

 

だからこそ、一瞬一瞬の判断は人より研ぎ澄まされていなければ務まらないと思う。

 

教室に入れなくなった子供が行くのは、だいたいが保健室ではないだろうか。

保健室登校や別室登校をしている子も含めると不登校潜在的な人数はもっといると言われている。

 

私が最初に教室にいけなくなった時に向かったのも保健室だ。

学校に行かないという選択がなかった頃、保健室は避難場所だった。

 

でも保健の先生が私にかけた言葉にはショックだった。

「ここに毎日いられては迷惑だ。」

強制的な言葉で教室に戻ることを促したのかもしれないが・・・とにかく逆効果だったと思う。

 

保健室にいられなくなったら、今度は別室登校になる。

どうしても教室には戻れないのだ。

 

別室登校では、一日中自習という名の放置だった。

先生たちには、とにかく煙たがられていることを感じた。

嫌味な目で見てくる先生ばかりだった。

実際心ないことをたくさん言われた。

問題児は学校に来るな。と言われている感じがした。

先生からしたらサボってる子としか思えなかったんだろう。

 

今だったら、

「先生、煙たがらないでくださいよ。

私だって必死に学校にしがみついてるんですよ〜。」と言ってやれるけども、

当時の私が言えるわけもない。

 

家庭に居場所がない子は学校に居場所を求める。

学校に居場所がない子は家に居場所を求める。

どちらにも居場所がない子はどこに行けばいいのだろう。

 

今ではきちんと支援があると思うけれど、この段階で少しでも踏みとどまることができれば、子供の心の負担はもう少し少なくて済むのではないかな。

 

先生のかける一言が、本当は子供を救うのにも関わらず、

その一言が子供を傷つけていることがある。 

明らかなえこひいき、教室を乱す者を排除しようとする行為。

案外子供はよく見ていますよ。

学校の先生に言われた言葉は、他の大人に言われた言葉よりも心に残ります。

 

これからも先生に言われたこと、されたことを私は忘れることはないだろう。

かと言って恨むわけでも、忘れられないと怒りに震えるわけではない。 

人は完璧じゃないから、そうならざるを得ないんだろうと理解してみたいと思うし、

「ひどい大人もいたもんだ、こんな人間になってはならない」と反面教師にしたいと思う。

 

先生に不信感を抱いた君にもどうか届いて欲しい。

「先生も完璧じゃない。

無理に尊敬しなくてもいい。

そして君にはそういう大人にならないという選択肢があるんだよ。

子供のうちにそれに気づいちゃったね。

それって最高じゃない?」

 

そう思って強くなろう(笑)

大検(高卒認定)の話。

f:id:fromwhiterabbit:20170902195134j:plain

河相我聞さんが、大検頑張って取ろうとしてる。頑張ってください!!

 

私も大検取得者です。(今は高卒認定というのですよね。)

 

せっかく入った通信制高校、留学を一年で終えて帰ってくると単位が足りないので留年となってしまうことを知り(今となっては何も考えてないね、私。とツッコミどころ満載です。)

高校を退学。

大検取得を目指しました。

 

なぜ目指したかと言うと、漠然と高卒認定は必要だと思えたからです。

また外国の学校へ行くにしても、日本で何か学ぶにしても、高校を卒業(卒業認定)しているのとしていないのでは現実的に差があると感じたのです。

 

いくつか通信制高校で取得した単位が大検で認められたり、英検を取得したので英語が免除になったりと、全ての教科を受験しなくてもよかったのは有難いことでした。

受ける決意をしてから次の受験まで10ヶ月くらい期間があったので、教科書はほとんど通信制高校で使っていたもので勉強しました。

 

かく言う私も一回では高卒認定はされず…まさに河相我聞さんと同じく一教科足りず。

2回目の受験で高卒認定が取れました。

 

夏に一回、秋に一回。年に二回受験するチャンスがあります。

高等学校卒業程度認定試験(旧大学入学資格検定):文部科学省

 

中学までは出席日数がなくても義務教育なので卒業できます。

高校からはそのようにはいかないので、高卒認定というものがあることは素晴らしい制度だと思います。

満16歳以上から受験が可能。

正直言うと、同級生よりちょっと先に高卒認定されたのは、ちょっとだけ嬉しかったですよ。

 

しかし取得してからその先どうするまでは、全然考えていませんでした。 

その当時、大学に入りたいと言う気持ちがなかったのです。

大学が必要なのか?とさえ思っていましたから。

 

取っておいてよかったな。と感じたのは、その後しばらくしてからです。

その1年半後に専門学校に。10年後に短大に行きました。

 

学びたいと思えた時期に、学べる場所を選べる選択肢は1つでも多くある方が良いのではないかと思います。人生気が変わる時もありますから(笑)

明るい不登校の過ごし方。

f:id:fromwhiterabbit:20170902153431j:plain

不登校になったことを負い目に感じてないと言ったら、そりゃ嘘になる。

人生には数々な選択肢が出題されるわけで、私はこちらを選んだけれども、

あちらを選んでいたならば…どうなっていたのだろうと思う気持ちはもちろんある。

 

だけど後悔はしない。

 

「学校に行けない」と悟った時、「学校に行かない」と決意した時、

私は自分に誓いを立てた。

 

「この先どんなことがあろうと自己責任。誰のせいにもしない。

学校に行かなかったことを後悔しない。」と。

 

誰かのせいにすることは楽だけども、

誰かや何かによって学校に行かないんじゃなくて、

自分で決めたんだと、ちょっと誇らしげに思いたかったんだと思う。

逃げたんじゃない。自分で選んだんだと。

そう思うことにしたからこそ、明るい不登校になろうと思えたのかもしれない。 

 

みんなが学校へ行ってる間、私がしていたことは、朝から夜までテレビざんまい。

テレビというツールを使って、ありとあらゆる情報を身につけたと言っても過言ではない。

(いたって真面目に言っていますw)

未だに囲碁将棋は全然わかりませんが、どのチャンネルを見ても楽しめる人間にはなったし、一通りいろんな知識はテレビから教えていただいたと思っている。

一人暮らしをした時、結婚した時、家事などに戸惑うことがなかったのは、テレビで学んだ生活の知恵のおかげだと思う。

 

テレビではなくて、ゲームという人もいると思う。

(お恥ずかしながら私はゲームが超絶下手で、そっちには行けませんでしたがw)

明るい不登校の第一歩は、何か熱中できることをとことんやる。

  

今は、ネットというツールがあって、情報を入手することも容易いし、

いろんな人といろんな形で繋がることができる。 

 興味を広げることを厭わないで、どんどん好きなことをすればいい。

 

たまには外に出て見る。遠くの誰も知らないところへ行ってみるのもいい。

百聞は一見に如かず。を実践するのも案外楽しい。

 

どうやっても興味が湧くことがなければ何もしない(笑)

(やる気の神様と同じく興味の神様も降臨する時もあればおやすみしたい日もある。 )

 

おそらく、「学校に行かない、行けない」という苦しさはどうやっても消えない。

今振り返ってみても、あの時ほど苦しい時間はなかったし、同時に好きなことをとことんやれたので楽しい時間でもあったなと感じる。

 

どうせ苦しさがどうやっても消えないならば、自分が楽しいと思うことも一緒にすればいいじゃないか。ずっと苦しんでる必要なんてないのだから。

 先の見えない未来に苦しむ日も必要な1日だけれど、先が見えなからこそ一瞬一瞬を楽しく生きることも必要だよ。

新学期が始まると。

不登校の母である私は、子供に案外厳しい。

夏休みの宿題は1つ残らずやらせるし(当たり前かw)

勉強も毎日させる(当たり前かw)

 

だけど、新学期を前にすると1つだけ言うことがある。

「学校に行きたくなければ、行かなくていいよ」と。

 

そんな不登校の先輩から言われても、今のところ「行きたくない」というわけではないらしいので毎日楽しげに学校に通ってはいる。

でも、そう言ってあげることが一番だと私は思っている。

 

不登校になりたての頃の新学期、学校へ行ったことを思い出す。

 

学校の先生は毎日、交換日記とやらを書いて私に渡してきた。

当時のドラマ「金八先生」で優しい先生が生徒と交換日記をしていたのを真似たんだろう。先生が私の気持ちをなんらかの方法で知りたいようだった。

友達は、「学校に来てね!」と言ってくれていた。

 

そんな気持ちに応えるために新学期に学校へ足を運んだ。

 

学校へ向かう、廊下を歩く、階段を登る、足がまるで重りがついたように重かった。

教室の目の前に来ても、なかなか教室のドアをくぐれない。

心臓が重くて重くて潰れそうな気持ちでいっぱいだった。

 

クラスメイトの好奇な目が気になった。

久々の授業は、ついていけるわけもなかった。

休み時間は、ずっと一人。

 

あんなに先生や友達は「学校に来てね」と言っていたのに、行ったら行ったで先生は先生の業務があってフォローはない。

友達は友達のコミュニティの中にいるので、そこへ入っていくことは私にとっては巨大な壁にしか思えなかった。

 

これじゃあ、一人で家にいた方がよっぽど心は楽だ。

そんなに頑張ってその中へ入る必要があるのか、 疑問しか残らなかった。

自分がそこにいるべき人間ではないような気がした。

翌日は、全身の倦怠感に襲われた。

もちろん学校へは行けなかった。

 

私の中では、必死にみんなの期待に応えて「学校へ行く」という大きなハードルを越えようとしていたけれど、みんなにとって「学校へ行くこと」は大したことではなかったし、先生にとっても大したことにも思えなかったんだろう。

だけどその当時の私の心境としては、頑張った分勝手に裏切られたような悲しい気持ちでいっぱいになった。

 

 

先生方やお友達には、新学期に学校へ頑張って行った子のフォローをできるだけお願いしたい。

「学校にいると楽しいな。」と思える瞬間を一瞬でも増やしてあげてください。

本気で学校へ戻って来てほしいと願うならば、どうか包み込んであげてほしいと願います。

9月1日

「9月1日は子どもの自殺が1年で最も多い日だ。」という。

死ぬな。

自殺した子供のニュースを聞くのは、嫌だ。

 

「なんで、死ぬんだろうね。」

「死ぬほど嫌だったら学校へ行かなければいいのに。」

そんなことを言う人もいるけれど、そんなに簡単なら死なない。

 

真面目で学校に行かないといけないと思い詰めていたり、

学校に行きたくないと親に言い出せなかったり、

あるいは将来を悲観したり。

その小さな心でどれだけ苦しい気持ちを抱えていたことか。

 

そんな子に言いたい。

「今は辛いかもしれない。

今死んでしまいたいかもしれない。

だけどね、大人になったらもっと楽しいことが待ってるよ。

そんな想像もできないかもしれないけど。

生きていれば、絶対にそう感じる日がやってくる。」

 

ありきたりの言葉かもしれない。

私もその当時はそんな軽々しい、表面的な言葉で何がわかるんだと思っていたから、

響かないことも承知だけど、言わせてほしい。

 

「生きてりゃなんとかなる。

私はあなたに生きてほしい。

あなたを必要とする人はこの世にたくさんいる。

あなたの価値はこれからの未来が証明してくれる。」

 

 

明るい不登校の過ごし方は、こうだ。

9月1日も平常運転。

新学期が始まったことすら忘れている(笑)

 

親の離婚。

前回、「お母さんも自分を責めないで」と書いたけれど、

「お母さん」だけでなく「お父さん」の場合もありますよね。

私の場合は「母」だったのでご容赦ください。

 

なぜ「母」だけだったかというと、離婚していて母と暮らしていたからです。

離れて暮らす父は未だに私が不登校だったことを知りません。

もしかしたら、風の噂で聞いているかもしれませんが。

未だに何も聞いてくることはありません。

 

私が小学校5年生の時に父と母は離婚しました。

性格の不一致といえばその通りと今は納得しますが、

幼心には大きな傷跡を残しました。

 

父と母の仲の良かった姿はほとんど見たことがありません。

いつも喧嘩する二人を泣きながら姉と一緒に止めていました。

怒鳴りあう二人の姿しか覚えていないのです。

ご飯を家族全員で一緒に食べた覚えもほとんどないのです。 

 

離婚の話が出ている時に私は泣いていませんでした。

いつも私に意地悪をする姉がその時ばかりは大泣きをしていたので、

それがなぜか面白くて泣いているフリをして笑っていました。

 

その時の光景は今でもよく覚えているのですが、幼いから離婚がわからなかったとか状況がわかっていなかったということは全くありませんでした。 

その頃から心は壊れていたんでしょうね。

 

母は理解のある人だったので離婚後も父と会うことはできました。

父の家に泊まり、帰る時は毎回涙をこらえていました。

「お父さん一緒に住めなくてゴメンなさい。」

空っぽになった家に一人で住んでいる父に申し訳ない気持ちでいっぱいだったのです。

 

環境がガラリと変わった毎日。

幼馴染と毎日遊んでいたのに、帰る家はいつも一人ぼっち。

友達はできたけれど、何かいつも寂しい自分がそこにいた気がします。

 

いつかまた一緒に…そんな切ない願いを持っていましたが、それは叶うことはない。

友達には虚勢を張って、周りには離婚したから寂しい子と思われないように必死で取り繕っていました。

 

 

今だからわかることは、母は当時不倫をしていたこと。

離婚する前からその男性とは何度も私たちも会っていて、

まさかそんなことになっているとは微塵にも思っていなかった。

でも今考えるとそういうことかと思う。

 

離婚して数年経った頃、母はその男性と再婚した。

その男性は、別の街に住んでいて家も仕事もそちらにあったので、

週末だけやってきたり、週末だけ母がそちらへ行きいなかったりした。

 

親も幸せになりたいだろうとは思うが、思春期の再婚はできれば避けた方がいい。

子供の心の複雑さを考えて欲しい。